2017/01/29(日) 西岡昌紀「ミステリー講演会」「アンネ・フランクはなぜ死んだか」  後半


大阪府吹田市 関大前駅 スタジオ・シチズン
撮影 スタジオ・シチズンのマスター西岡氏


  制作:京都データサービス
音声:No_02_名称未設定
話し手:司会 西岡 女性A
録音時間:21分
納品日:2017年3月2日

☆ディクテノート
・意味がわからなかった部分は〈(?)〉、聞き取れなかった部分は〈***〉で表記しております。ご確認のほど、よろしくお願いいたします。


 
   
  (音声開始 00:00:00)     
司会  はい、今のくだり終わりました。     
  会場 (拍手)     
司会   (笑)。非常に、ちょうど休憩の間で、こういうものがまた出たりしましてね(笑)。     
  会場 (笑)     
司会   少し滑舌をよくするためにというか、アルコールなども少し入れながら、あともう少し第2部のほうをさせていただきたいと思います。それでは先生、続きをよろしくお願いします。     
 西岡
じゃあ、もう少し話を続けます。ティース・クリストファーセンというドイツ人が1973年に出した『アウシュヴィッツの嘘』と題されたパンフレット、これが当時のアウシュヴィッツにいた逆の側の生き証人として、彼の証言が大変なインパクトを与える。で、それを私自身読んで、はっきり言ってもう信じたものが、がらがら崩れたんですね。

 
Thies Christophersen
→ Wikipedia(英語版
→ Wikipedia(ドイツ語版)
(1918-1997 )
ドイツ人。
1973年にドイツで、"Die Auschwitz Luge"という本をドイツで発表。
後に英訳されて" The Auschwitz Lie"で最初の版が出版され、後に改訂版も出版された。

 
 西岡

ちょっと今ここちょうど、『夜と霧』の初版をお借りしたので、『夜と霧』の話にもふれようと思うんですけれども。まず『夜と霧』は、亡くなったオーストリアの詩人家のフランクルという人書いた本なんですが、ここに書いてある本、特に旧版を私がよく取り上げるのは、フランクルの本文は半分ぐらいかな、それであと、日本側のいろんな人が加えた写真だとか解説のほうが多くなってて、実は昔、このマルコポーロの事件の少しあとに、私はみすず書房に電話して、ちょっといろいろ聞いたことがあるんですよ。誰が書いたのかわかんない解説があるけど、これはどういう人が書いたんですかって聞くと、わかりませんとか言うんですね、みすず書房の編集者が。で、あと、いろいろ質問してても全然答えられなくて、何だ、だめだなと思ってたら、なぜかいつの間にか今度は新版っていうのが出て過去のいろんな写真や何かがなくなってるんですけどね。さっきのダッハウの話じゃないですけど今となるとちょっと都合の悪い話を一斉にカットするのが目的だったんじゃないかと思うんですが。この写真についても突っ込みどころがたくさんあるんですけれども、だから新版になったんじゃないかと思ってるんですが。

それはともかく、まず本文のフランクル自身の書いてること、全部本当だとしても、彼はガス室を見たとは言ってないんですよ。彼は別にガス室の目撃証人ではないので、話をガス室に限って言う限り、彼の証言は別に目撃証言ではないと。で、そこに書いてあるいろんな虐待の話なんかについては、もう個別に検証するの、はっきり言って不可能ですけれども、信じるか信じないかになってしまいますけれども。私は別にドイツがユダヤ人虐待しなかったなんて言ってはいないんで、そこを全否定するつもりもないと。 

ヴィクトール・フランクル
→WIKIPEDIA
(Viktor Frank)
(1905-1997)
オーストリアの精神科医、心理学者。著作は多数あり日本語訳も多く重版されており、特に『夜と霧』で知られる。


KINDLE版2014年


『夜と霧』新版 2002年



『夜と霧』旧版1985年版




『夜と霧』旧版1961年版




みすず書房

ダッハウ


 
 西岡

だから私の問題提起の中では、彼の証言自体はあまり私にとって意味を持たないんですが、これからお話しするティース・クリストファーセンの証言も、ちょっと聞いてほしい。
つまりは一つのものごとについて、一方の側の証言だけを聞いちゃいけないはずなんで。
ところが戦後ドイツでは自由な言論がなかったので、それを私たちも接する機会がなかったと。
そこに日本人の場合は、日本のマスコミのバイアスがかかってくるから全然それは伝わらなかったんですが。
 
   
   

ティース・クリストファーセンという人がどういう人だったかってお話ししますと、この人は農民の息子で決して学歴高い人ではなかった。ギムナジウムというドイツにおける高校を出たあと大学なんかにいってない人で、第2次世界大戦の起こったあとドイツ軍にまず従軍したわけです。
で、ところがフランス戦線で負傷したんですね。負傷して、除隊まではいかなかったんだろうけれども、とにかくそれで(?)これまでどおり軍務に就くことができなくなったと。
それでそこで彼に新しい任務ができてきた。そこはちょっとなかなかこれ興味ある話なんですが、農民の出身であった彼に、ドイツ軍が出した新しい使命が何かというと、後方勤務なんですけど、今まさにアウシュヴィッツといわれてるあそこで、ある植物の栽培をする仕事というのを与えられた。

その植物とは何かというと、コクサギスというタンポポみたいな植物で、これの栽培をやれという命令が出たんです。
これは何かといいますと、実はこれ非常に面白い話なんですけども、第2次世界大戦起こって日本が東南アジアを占領したら、東南アジアからの天然ゴムが欧米に流れなくなった。そしてそれはもちろん、日本が戦ってたアメリカやイギリスをはじめとする連合軍も天然ゴムが入んなくなって困ったんですが、これ意外に私も思ったんですけれども、日本の同盟国であるドイツも困ったんですね。とにかく天然ゴムが日本の占領地域から全然出なくなったから、今のように化け学が、石油化学が進歩しなかった時代には、東南アジアからの天然ゴムが来なくなることで、連合軍も困ったけれどもドイツも困ってしまったと。何か天然ゴムに代わるものがないかということで、ウクライナなんかにたくさん生えているコクサギスというタンポポみたいな植物があって、この植物を代用して人工ゴムを作れないかという研究をやったんですね。

そこで農民出身のクリストファーセンを、ほかにもたくさんいると思いますけども、その栽培をするようにということでアウシュヴィッツのほうに彼は後方任務として行かされるわけです。
   
西岡 

アウシュヴィッツのこのまず地理が本当は大事なんですけども、アウシュヴィッツ収容所といわれるのは二つに分かれてます。
アウシュヴィッツ1、アウシュヴィッツ2といわれてますけど、2というほうが大きくてビルケナウともいいますが、そこに、もうものすごい広大な収容所があって、1のほうが小さいんですね。そのほかにアウシュヴィッツ3と呼ばれることもあるんですが、モノヴィッツというちょっと工場が集まったようなところがあって畑もあると。そこはだから、いわゆる収容所というほどのところではなくて、確かにユダヤ人なんかは送られてくるんですけど、ここで主に軽労働なんかをやってたところなんです。






 
 


アウシュヴィッツ第一強制収容所は、ドイツ占領地のポーランド南部オシフィエンチム市(ドイツ語名アウシュヴィッツ)につくられた。



アウシュヴィッツ第二強制収容所は、 アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所
ドイツ語: Das Konzentrationslager Auschwitz-Birkenau、
ポーランド語: Obóz Koncentracyjny Auschwitz-Birkenau)
→WIKIPEDIA

「死の門」 アウシュヴィッツ第二強制収容所(ビルケナウ)の鉄道引込線

ホロコーストものの映画ではお約束のように恐怖の強制収容所としてこの場面が使われる。

アウシュヴィッツ第一強制収容所に隣接するブジェジンカ村(ドイツ語名ビルケナウ)につくられた。
周辺には同様の施設が多数建設されている。
ユネスコの世界遺産委員会は、二度と同じような過ちが起こらないようにとの願いを込めて、1979年に世界遺産リストに登録した。公式な分類ではないが、日本ではいわゆる「負の世界遺産」に分類されることがしばしばである[2]。一部現存する施設は「ポーランド国立オシフィエンチム博物館」が管理・公開している。



「アウシュヴィッツ第三強制収容所モノヴィッツ」
1942~1944年 - モノヴィッツ村周辺に、当時のドイツを代表する大企業の製造プラントや近隣の炭鉱に付随する形で、大小合わせて40ほどの収容施設を建設。


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1940年1月25日 - ポーランド・オシフィエンチム市郊外の強制収容所建設を決定。
1940年5月20日 - 「アウシュヴィッツ第一強制収容所(基幹収容所)」[11]が親衛隊(SS)全国指導者ハインリヒ・ヒムラーの指示により、ドイツ国防軍が接収したポーランド軍兵営の建物を利用して開所。強制収容所における画一的な管理システム、いわゆる「ダッハウモデル」を踏襲している。初代所長は、SS中佐ルドルフ・フェルディナント・ヘス。[12]ザクセンハウゼン強制収容所から移送された犯罪常習者30人が、最初の被収容者となった。 6月14日 - ポーランドの政治犯728人が到着。

1941年 - 最初のガス室を備えた複合施設「クレマトリウム1」が第一強制収容所に完成。 10月 - 収容者増加のため、ブジェジンカ村に大規模な「アウシュヴィッツ第二強制収容所ビルケナウ」を建設。

1942~1944年 - モノヴィッツ村周辺に、当時のドイツを代表する大企業の製造プラントや近隣の炭鉱に付随する形で、大小合わせて40ほどの収容施設を建設。この施設群は「アウシュヴィッツ第三強制収容所モノヴィッツ」[13]とも呼ばれる。

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  よくアウシュビッツ、すごく重労働を課せられたというようなことをまずいってるわけですけども、まずクリストファーセンに言わせれば、全然重労働なんかさせてなくて軽労働だったと、それはでもタンポポみたいな植物を自分が栽培するうえでの人員として、ユダヤ人の、特に自分が使ったのは、自分のいわば部下のようなかたちで、ユダヤ人もいればロシア人もいたし、ポーランド人もいたし、フランス人もいたし、ジプシーもいたと。そういう人たちは主に女性たちで、植物の栽培をやってもらったけども、全然、非常に牧歌的な生活だったとそこは言うわけです。そこは私たちの持ってるアウシュヴィッツのイメージと違うんですが。

そこで例えばこんな話をするわけなんですね。
まず自分はそういうことで後方勤務になったから、後方勤務だけれども、植物の栽培で何とか役に立とうと思って一生懸命やったけど、なかなかうまくできないと。
そんなときに、自分のもとにやっぱり送られてきて自分の管轄のところにいたチェコから来たユダヤ人の女性がいたと。で、女医さんだ、医者だったと。で、その人と話をしたら、まず自分が、クリストファーセンですよ、負傷してけがをして、そしてまた高校しか出てないけど今こういうことを一生懸命やってるってことを知ったら、彼女が私にとても同情してくれたと。じゃあ、あなたの仕事をぜひ手伝いたいからといって、もう、私が知らないいろんな専門的な、医者だからいろんなことで私のことすごく助けてくれたと、とても私はこの人に感謝してる。

まずこれを聞いて皆さんどう思いますか。
ユダヤ人が、そこにいる植物栽培の監督官であるクリストファーセンにこうふうにして同情してくれて、協力を申し出て、2人がとても信頼関係に結ばれたって。こういう人間関係が普通にあったってわけですよ。
そこで彼は、クリストファーセンは書いてるんですね、これは別に自分だけじゃないと。当時そこにいたドイツ人とユダヤ人の間に友情があったと。私の友達の中には戦後、アウシュヴィッツにいたユダヤ人とずっと文通を続けてる者もいると。

これ、どう思いますかって。
アメリカの映画が、ハリウッドが描くような世界が本当だったとしたら、アウシュヴィッツにいたユダヤ人とドイツ人が戦後文通続けますかね、そういうことがまずあったって言うんですよ。

それで彼いわく、そこに働いてたユダヤ人をはじめとする女性たちとわれわれの関係はとても良好だったと。そこにいたユダヤ人たちの中にここのほうが安全だという人もいた。

つまりポーランドでのユダヤ人迫害ってひどかったんですよ。隔離された人ってポーランド人よりずっとましだったわけです。
はっきり言いますけど、ポーランド人のほうが全然ユダヤ人迫害してたんですよ、ワルシャワでもそうですけれども。むしろ収容所に隔離されたことで、ポーランド人の暴力から逃れることできたわけですからね。

それで、そういう中には、話をしていると、アウシュヴィッツにいるユダヤ人たちはソ連を恐れてたって言うんです、ソ連軍が来るんじゃないかということをすごく恐れてたと。ドイツの勝利を願ってるユダヤ人が何人もいたと言うんです。

いいか悪いかは別として、ドイツ人の看守じゃないんですけど、そういう役目をしてるクリストファーセンとユダヤ人の間にそういう温かい人間関係があったというわけです。



 
   
  で、そこにあと写真が出てますけども、彼はモノヴィッツ、アウシュヴィッツの近郊に派遣されるとき、新婚直後、新婚まもない時期だった。奥さんと別れてたんだけども、奥さんが自分に会いにアウシュヴィッツに来たと。で、彼のお母さんも来たと。お母さんと彼の結婚したばかりの奥さんが2人でアウシュヴィッツ駅に来たときの写真が載ってます、2人がにこやかに写ってて。これがそんな恐ろしいところに来た2人だろうかと、私、その写真を見ても思うわけですよ。また、いわれてるような、今日はやることがない、ユダヤ人でも殺すかみたいな世界がもし本当だったとしたら、そんなところに彼のお母さんと新婚の奥さんが来ますかと、あるいはクリストファーセンそれ呼びますかと。秘密だとしたら、だってそんな民間人が来れることもおかしいわけですよ。

そういうことをいろいろ書いてあるわけです。 
   
 西岡
さらに言うと、ここも重要なポイントだと思うんですが、二つあったアウシュヴィッツ収容所のうちの第2のほう、あとから作られたところでビルケナウと呼ばれてるわけですが、そこは急ごしらえで、しかも湿地帯に造ったので非常に衛生状態が悪かったと。あとから問題になる発疹チフスの大発生にも関係するわけですけれども、衛生状態が悪かったと。

そこで、自分はそのことを非常に心配して、自分の上官に意見をしたと、こんな衛生状態改善するべきだと、これでは病気が発生するということを非常に言ったと。さらに、こんなこと書いてるんですよ。自分はその収容所の様子を見てて、ドイツのユダヤ人政策は間違ってると思ったって言った、それを上官に言ったっていうわけですよ。そうしたら上官は何と言ったかっていうと、俺もそう思うよと言ったと。だからドイツのユダヤ人政策は全体として差別的なものだったこと、それは僕も否定しませんけれども、当時ドイツ軍の勤務をしていたドイツ人がやっぱり同じようなことを思って、ユダヤ人と信頼関係を持ったうえで、上官との間で、ドイツのユダヤ人政策が間違ってるな、なんて、そんな会話をしてたっていう。そんなことができてたんですよ。

しかもそこにいたユダヤ人たちはソ連が来るのを恐れていた、これがクリストファーセンの言ってることです。これ信じないという方はいれば、それは信じないのは自由ですけど、証言は証言ですから。


 
   
西岡 
でも、戦後私たちは、こういう証言には全くふれることがなかったわけです。

でも、それでもクリストファーセンだけじゃなくて、調べていくと、時間もありませんから詳細は省略しますけれども、例えば『ショア』(Shoah)という映画に出てくるユダヤ人の中にも、私はアウシュヴィッツでは人が殺されるの見たことがないなんて言ってる人が、あの『ショア』(Shoah)の証人のユダヤ人の中にもいるわけですよ。
つまり、私はアウシュヴィッツで人が殺されるの見たことがないという証言を、クリストファーセンを含めて、僕3人ぐらい見つけてますね。

ほかにもいるっていわれてますけれども、そういう側の証言は徹底的に封じ込まれてきて、メディアなんかで接せられないようにしてきて、地獄のような世界だっていう証言ばっかりが戦後課せられてきた。

だから、客観的証拠がないと言うと、でも証拠があると言うんですが、証拠が食い違ってるんですね。
ガス室に否定的な証言たくさんあったんです、ユダヤ人による証言も含めてです。


映画『ショア』(Shoah)
→WIKIPEDIA
1985年のフランスの映画。クロード・ランズマン監督。上映時間は9時間30分。製作には1974年から11年の歳月を費やした。日本での公開は1995年、東京日仏学院で行われた。
ユダヤ人絶滅政策(ホロコースト)に関わった人々へのインタビュー集であるが、演出もところどころ行われており、全くのドキュメンタリーではない。
インタビューの対象は、被害者たるユダヤ人生還者、加害者たる元ナチス、傍観者たるポーランド人に大別することができる。
クロード・ランズマン監督はこれまでのホロコーストをテーマとした映画にきわめて批判的である。特に『シンドラーのリスト』に対しては、出来事を伝説化するものであるとして舌鋒鋭く批判している。






 

 
   そして最初に話したラッシニエというレジスタンス。彼はブーヘンヴァルト収容所に収容されていて、ガス室、大量殺人ということに非常に疑問を呈したわけですが、彼がいたブーヘンヴァルト収容所も、実際昔はガス室があったといわれていたけれども、そのうちいわれなくなってる、ラッシニエが言ったからかなという気もちょっとするんですけれども。そういうふうに懐疑的、否定的な証言のほうは徹底的にマスコミ、アカデミズムは無視してきたために、私たちはそこにいたユダヤ人がドイツ人がみんなそういうことを証言してるというかのような錯覚を持ってしまいますね。  ラッシニエ



ブーヘンヴァルト強制収容所
Konzentrationslager Buchenwald)
→WIKIPEDIA

「ブッヘンヴァルト」「ブッヒェンヴァルト」とも表記される。 
ナチス・ドイツがテューリンゲン地方エッテルベルク(de:Ettersberg)の森の丘の麓に設置したブナの木の名を持つ強制収容所。
1937年7月に設置されてから1945年4月のアメリカ軍による解放を迎えるまでの間にブーヘンヴァルトには総計で23万3800人の人間が囚人として送られ、そのうち5万5000人以上の人間がここで死亡したと見られている。


解放後の1945年4月23日のブーヘンヴァルト。やせ細った囚人の遺体を前に立ち尽くすアルバン・W・バークリー米国上院議員

解放直後1945年4月16日のブーヘンヴァルト。下から2段目、左から7番目はエリ・ヴィーゼル

 
西岡 
あともうちょっと、もう一言でちょっと終わりにしますけれども、アンネ・フランクの話にちょっと戻るんですが、アンネはアウシュヴィッツに一度送られたけども、そのあとベルゲン・ベルゼンに戻ってくるわけですね。

それでなぜかということを考えたときに思い当たるのは、クリストファーセンが言ってたこの言葉に非常にそこに答えがある気がするのは、ユダヤ人たちがソ連を恐れてたってことで、彼らはソ連軍が迫ってくることに恐怖を持ってたんだと思います。だから、アウシュヴィッツやなんかのポーランドの収容所に一遍入れられたユダヤ人が、逆輸送でベルゲン・ベルゼンなどのドイツの収容所に戦争末期に大量にどんどん送られて戻ったのを、それを通説側は死の行進なんて言ってますけれども、そうじゃなくて、ドイツとしてみれば放っておいたって別によかったわけですよ。ユダヤ人の側は、もうソ連軍が怖かったんだってことが絶対背景にあったと思います。 

アンネ・フランク




ベルゲン・ベルゼン強制収容所
→WIKIPEDIA
(独: Konzentrationslager Bergen-Belsen)
ドイツ・プロイセン州・ハノーファー県(de)(現在のニーダーザクセン州)・ベルゲン(de)のベルゼン(de)に存在したナチス・ドイツの強制収容所。ツェレから北16キロ、ハノーファーから北東65キロの場所に存在した
。『アンネの日記』を書いたユダヤ人少女アンネ・フランクが命を落とした収容所として知られる。
公式には「滞留収容所(Aufenthaltslager)」と名づけられていた[1]。

 
 西岡
一つ加えれば、アンネ・フランクのお父さんであるオットーっていう人物がいますけれども、このお父さんは発疹チフスにかかってるんだそうですね、アウシュヴィッツにいるときに。ところが彼は助かった。なぜかっていうと彼はドイツの医療を受けたからです。あそこにある病院でドイツによる治療を受けてるんですね。もしドイツがユダヤ人絶滅を目的にアウシュヴィッツにユダヤ人を収容したというのならば、何で発疹チフスにかかったユダヤ人に医療を施すわけですか。そこでちゃんと医療があったわけですよね。だから収容したこと自体が差別だったとしても、絶滅が目的だったというならば、それはおかしいわけです。

現に医療を受けて助かったユダヤ人たくさんいたわけだし、ダッハウでは連合軍が公開した写真の中で、連合軍が着いた直後に赤ちゃんが生まれたユダヤ人たちの女性の写真なんかがある。絶滅が目的だったら、何で病気になったユダヤ人に医療を施したり、赤ちゃんが生まれたりすることがそういうふうに続けてられていたのか。これを通説側はちゃんと説明すべきですけど、説明がないですね。

だからドイツがユダヤ人を差別、迫害したことは、それは事実です。それは何も否定しませんが、いわれている絶滅という政策があったという話はどう考えてもおかしい。 
オットー・フランク

 
 西岡
ほかにも、第三帝国の時代のホンダトモゲン(?)という法律家が、検事だった人かな、ニュールンベルグ裁判で言ってることで、第三帝国の時代に自分が扱ったドイツ人によるユダヤ人に対する虐待、犯罪行為が800件あったと。そのうちの100件は私が処罰したって言ってる。ニュールンベルグ裁判で彼がこう言ったときに連合国側の検事補は異論を唱えていません。つまり、確かに差別はあったけれども、ドイツの法律のもとでドイツが800件報告があったよっていうことは、現にユダヤ人に対する暴力行為その他の犯罪があったということですが、そのうちの100件でドイツ人が処罰されてるわけですね。ユダヤ人絶滅するんだったら、これはおかしいんじゃないか。 
   
 西岡
中には、これちょっと細かい事実関係で議論があるんですけども、収容所の司令官だったコッホという人物がいて、この人物は、ユダヤ人を殺して、ユダヤ人からユダヤ人の金品を奪ったという人物なんですね。その人にどんな処罰が加えられたかというと死刑なんですね、彼は死刑に処せられてるんですね。これに対して、これはユダヤ人を殺したからじゃなくて金品を着服したからだと言う人もいますけども、そこはちょっとわかりませんが。でもおかしくないか、絶滅しようとしている対象であるユダヤ人から金品を奪って殺したと、それででも絶滅が目的だったらそれで何で、司令官ですよ、司令官のコッホが死刑になるのか。これもやっぱりおかしんじゃないか、こういう不合理がたくさんあります。 
カール・オットー・コッホ(Karl Otto Koch
1897-1945
→WIKIPEDIA
→WIKIPEDIA英語版
→WIKIPEDIAドイツ語

ナチス・ドイツのブッヘンヴァルト強制収容所やマイダネク絶滅収容所の所長を務めた人物。親衛隊(SS)の隊員であり、最終階級は親衛隊大佐(SS-Standartenführer)。
1943年8月、コッホは反抗行為及び運営怠慢そして横領と偽造の罪でゲシュタポに逮捕された。
コッホには極刑判決が下り、アメリカ軍が到達する一週間ほど前の1945年4月5日ブッヘンヴァルト強制収容所において銃殺刑に処せられた。
一方、妻のイルゼも裁判にかけられていたが、彼女は無罪となった。しかし、戦後に行われた裁判で終身刑を宣告された。そして1967年、獄中で首吊り自殺した。
 
西岡  
だから、こうふうに考えていくと、クリストファーセンの証言というの、僕はかなり信憑性があるんじゃないかと。

   
 西岡
ほかにもシュテークリッヒ(?)ってドイツ人が、ドイツの空軍の将校としてアウシュヴィッツの防空体制を見るために1944年にアウシュヴィッツに行ってるんですけども、そのとき全く非常に平穏な状況であったと、そして非常に印象深いことを書いてるんですけども。収容所のユダヤ人の人が酔っぱらって、それでドイツ人の看守にからかって絡んでたけど、別にドイツ人のほう、兵隊のほうは黙って何にもしなかったと。

あんな、ハリウッドの映画が描いてるような世界が本当だとしたら、ユダヤ人がそんなドイツ人酔っぱらってからかって、それで何でもそのままされてるっていうの不思議じゃないかと。

さらに言えばアウシュヴィッツの収容所には病院だけじゃなくてプールもあって、被収容者が泳ぐことも、水泳を楽しむこともできたし、それから売春宿があったんですよ、皆さん、いわゆる慰安所ですね、ユダヤ人のための。 
 シュテークリッヒ  
 西岡

じゃあ、いったい絶滅が目的だったら何でここまで普通の社会のようなものがあったのか。

はっきり言えば、ドイツのユダヤ人政策は確かに差別的で不当なものだったけれども、これは、僕はあえて言いますけども、アメリカの日系人の収容、以上でも以下でもないと思います、やったことを公平に比較すれば。

だから一方の戦争に負けた側のドイツに関しては絶滅だって話になって話が膨らまされている、一方のアメリカの日系人の収容に関して言えは、もちろんアメリカの国内で自己批判が起こって賠償が行われた(?)ことは立派だったと思いますけれども、果たしてドイツのユダヤ人収容をアメリカがあんなに悪魔化して言う資格があるのかだろうかと疑問を持たざるを得ないですね。

あとまた話すことはいっくらでもありますけれども、とりあえずここまでと***。

 
   
司会  ありがとうございます。     
  会場 (拍手)     
 司会
まだまだ本当にいっぱい出てくると思うんですけど、これらの問題っていうのは本当に底でつながってるような気がするんですね。実は本当にあったかどうかって定かでなくって、しかも証拠がないし、話として非常におかしなものが、もう通説としてあるいは常識として出回っていて、そのうえ、それを否定するものを処罰する法律まであると。こうなってくると、実はこれはもう何か裏があるんじゃないかと思わざるを得ないという、思うんですね、あったかなかったかという話は別にして。今日はそこまで話すると、これ、ユダヤの陰謀とか何だかになって、もういろんなところに話が飛びます。

だから、あえてもう放送のほうはここで終わりにさせていただきまして(笑)、あとは座談会というかたちでお茶会しながらいろんな意見を皆さんからお伺いして、楽しく座談をしたいと思います。

この中身に関しましては、取材されましたのら猫の手さんがIC録音をさせていただいて、その中から文字書き起こしで、記事、ブログ記事にされますか。 
   
 女性A はい、そうです。     
司会  ブログ記事にされるということですので、いつになるかわかりませんけども(笑)、楽しみにお待ちいただきたいと思います。番組のほうは、これで終了させていただきます。西岡先生、どうも今日はありがとうございました。     
  会場 (拍手)     
女性A  記事は***のほうも、***。     
  (音声終了 00:20:09)